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2026年5月30日 土曜日

「あの人が嫌い」の裏にあるもの。空気に流されず、自分を守る境界線の引き方

タレント・あのが、テレビ番組内で鈴木紗理奈を「嫌い」と受け取られる発言をしたことをきっかけに、SNS上で賛否が広がった。本人は後に謝罪し、番組降板の意向まで示したが、議論は単なる芸能ゴシップを超え、「現代のコミュニケーション」や「メディアの人格消費」の問題へ発展しているように見える。

前提として、あのと鈴木紗理奈の間に、実際に何があったのかはわからない。もしかすると具体的なトラブルはなく、単なる番組上の流れだったのかもしれない。そこは外部から断定できない。

ただ、おそらく本質は、「鈴木紗理奈という個人」が嫌だったというより、「鈴木紗理奈的なコミュニケーション」への違和感だったのではないかと思う。

例えば、
・圧の強い会話
・“空気を読め”の圧力
・昭和的バラエティのノリ

そういった「現象」への違和感である。

もしそうなら、本来語るべきだったのは、「鈴木紗理奈が嫌い」ではなく、

「こういう空気が苦手」
「こういう関係性がしんどい」

だったのではないか。

しかし、現代メディアは、「構造」ではなく「人物」に変換する。なぜなら、その方が数字になるからだ。そして私たち観客もまた、複雑な構造を理解する労力を避け、分かりやすい悪役を叩く快楽に身を委ねてしまう。システムへの違和感は、特定の個人への憎悪へと、安易に翻訳されていく。

これは最近話題になった、「中年男性のハーフパンツがキモい」という論争にも近い。本来議論すべきなのは、公共の場における装いのマナーや、そこに見え隠れする男性性の圧力、古い価値観、あるいはそれをあえて冷笑してみせるメディア感覚の古さかもしれない。

しかし実際には、
「キモいおじさん」
という人格消費へ流れていく。

つまり今のメディアは、「構造問題」を、「誰を笑うか」「誰を排除するか」に変換してしまう。その方が、圧倒的に感情が動くからだ。

ただ、ここで難しいのは、あの自身も、その構造の外にはいなかったことだと思う。

彼女は、確かに尖っていた。

「嫌だ」
「無理」
「しんどい」

という感情表現は強かった。

しかし一方で、
「だから私はこう生きる」
「これはやらない」
「この関係性には入らない」

という、“境界線の定義”までは徹底していなかった。

つまり、尖ってはいた。しかし、自己の設計までは行っていなかった。感情の表出にとどまる尖り方は、結局のところ、メディアが消費しやすい「都合の良いキャラクター」として回収されてしまうリスクを孕んでいる。

一方で、ローランドは違う。

彼は、「俺か、俺以外か」と強い言葉を使う。しかし実際には、他人をほとんど語っていない。

語っているのは、
「自分はどう生きるか」
である。

スマホを見過ぎたくないなら、環境から変える。嫌な人間関係に飲まれたくないなら、最初から距離を取る。つまり、「嫌」を他人批判ではなく、“自分のルール”として定義している。

だから彼の言葉は、攻撃的に見えても、意外と“恨み”に見えにくい。

あのが提示したのが「拒絶の感情」だとすれば、ローランドが提示しているのは「生存の哲学」だ。前者は他者の存在に依存するが、後者は自分の中で完結している。

私は今回の件を見ながら、現代人の苦しさは、「嫌なものがあること」ではなく、「嫌なのに、境界線を曖昧にしたまま適応し続けること」にあるのではないかと思った。

会社でも、家庭でも、SNSでも、人は空気に流される。そして疲れると、「あの人が悪い」「あいつが嫌い」になる。

しかし、本当に大事なのは、
「自分は何をすると壊れるのか」
「何を引き受けないのか」
を、自分の言葉で定義することなのだと思う。

それは他者を否定するためではない。自分自身を過剰な刺激から守り、結果として他者と健全な距離で繋がるための、防波堤のようなものだ。

今までは、「適応力」が強い人が評価された。何にでも染まれる柔軟さが美徳だった。しかし、情報も刺激も多過ぎる現代では、「境界線を持てる人」の方が、むしろ長く安定して生きられるのかもしれない。

自分と世界の間に、あえて一本の線を引くこと。それこそが、優しすぎる現代人が、自分を消費し尽くされないための、静かな知恵なのだろう。

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2026年5月30日 土曜日

答えではなく、余白を渡す

人は、説明されれば納得するわけではない。むしろ、説明され過ぎると、頭ではわかった気になるのに、どこか自分のものにならないことがある。人が本当に納得するのは、外から正解を与えられた時ではなく、自分の中に散らばっていた点と点が、ふと線になった時なのだと思う。

相続の相談でも、最初に出てくる言葉は「名義変更をしたい」「遺産分割協議書を作りたい」といった手続の話である。しかし、実際に話を聞いていくと、その奥には、親への思い、兄弟姉妹との距離感、介護の不公平感、お金の話を切り出すことへの抵抗、自分だけが悪者になりたくないという不安など、まだ言葉になっていないものがいくつもある。手続だけを説明すれば、法律的な答えは出せる。しかし、それだけでは本人の中にある不安の正体までは見えてこない。

これは、カウンセリングにも言える話だとと思う。カウンセリングの本質も、専門家が答えを与えることではなく、本人が自分で気づくための視点を渡すことにあるだろう。人は苦しんでいる時、自分と感情が一体化している。「自分はだめだ」「相手が悪い」「なぜわかってくれない」といった物語の中に入り込み、そこから出られなくなる。そこで必要なのは、正解ではなく、少し離れた場所から自分を見るための視点である。

例えるなら、幽体離脱して自分を眺めるような感覚である。自分がいま何に反応しているのか、この家族関係の中でなぜ同じことが繰り返されるのか、この時代の価値観や役割意識がどのように自分を縛っているのか。そうやって一段高いところから見ることができると、苦しみがすぐ消えるわけではないが、少なくとも苦しみに飲み込まれる状態からは少し離れられる。

ただし、ここで難しいのは、専門家が説明し過ぎると、かえって本人の気づきを奪ってしまうことである。答えを与え過ぎると、その場では安心する。しかし、次もまた「正解をください」「判断してください」となりやすい。これは支援のようでいて、依存を生む危うさもある。だから、本当に大事なのは、全部を埋めることではなく、あえて行間や余白を残すことだと思う。

余白があるから、人は自分で考える。行間があるから、自分の経験をそこに重ねる。点と点を他人がすべて結んでしまうのではなく、本人が自分で線を引けるように場を整える。その時、人は初めて深く納得し、少しずつ自立していく。

AIの時代になり、知識や答えはますます簡単に手に入るようになった。だからこそ、これから専門家に求められるものは、単に答えを知っていることではない。法律家であれ、カウンセラーであれ、相談を受ける立場の人間に必要なのは、相手の視座を少し上げる力である。本人が、自分の人生をただの混乱としてではなく、一つの構造として見直せるようにすること。人を支えるとは、正解を渡すことではなく、その人が自分で気づくための余白を渡すことだと思う。

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2026年5月6日 水曜日

事業の価値で融資を引き出す。新制度「企業価値担保権」の活用法

2026年5月、資金調達のあり方を変える「企業価値担保権」がスタートする。不動産などの目に見える資産ではなく、会社の「事業そのものの価値」をまとめて担保にできる制度である。経営者保証も原則不要とされており、事業承継の面でも注目されている。

ただ、この制度が始まればすぐに融資が受けやすくなるかというと、現実はそこまで簡単ではない。

これまで多くの金融機関は、「保証協会の保証」や「不動産担保」を前提に融資をしてきた。そのため、「事業そのものを評価する力」は、まだ発展途上にあると言われている。金融庁の資料なども整備されてきているが、現場では試行錯誤が続いているのが実情である。

こうした状況では、企業側からの働きかけが重要になる。ポイントは、「金融機関の中で説明が通りやすい形に整える」ことである。

まず、自社の強みを「銀行員の言葉」で伝えること。担当者は財務には詳しいが、業界の専門家ではない。「技術力がある」といった抽象的な話ではなく、「シェア」「取引実績」「離職率」など、客観的な数字や事実に置き換えて伝える。A4数枚にまとめておくだけでも、評価のされ方は変わる。

次に、資金が必要になる前から関係をつくっておくこと。いざというときに初めて説明しても、すぐに理解してもらうのは難しい。普段から現場を見てもらい、事業の雰囲気を知ってもらうことが、結果的に評価につながる。金融機関は数字だけでなく、現場の様子や社員の雰囲気も見ている。

そして、専門家を「通訳」として使うこと。経営者自身が自社の強みをうまく言語化できないことも多い。そこを第三者が補足することで、会社の安定性や強みが伝わりやすくなる。専門家が関わっているという点自体も、安心材料になることがある。

この制度はあくまで仕組みの一つにすぎない。実際に活かせるかどうかは、企業側の準備と関わり方に大きく左右される。評価されるのを待つのではなく、評価される材料を整えていくことが大切である。

当事務所としても、企業の状況を整理し、金融機関に伝わる形に整える役割を担っていきたいと考えている。

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2026年4月17日 金曜日

不動産の暦年贈与は損かーそれでもやる人がいる理由ー

不動産の暦年贈与は、基本的に損である。
登録免許税もかかる。不動産取得税もかかる。場合によっては贈与税もかかる。現金で贈与すればかからないコストを、あえて払うことになる。

それでも、この方法を選ぶ人がいる。なぜ、わざわざ損をするのか。

結論から言えば、不動産の暦年贈与は「得をするための手続き」ではなく、「損を小さくするための手続き」だからである。ここでいう損とは、税金ではない。将来起こりうるトラブルや制約のことである。

不動産は、持っているだけでは問題にならない。しかし、いざ相続が発生すると、一気に問題が表面化する。

まず、分けられない。現金であれば1000万円を500万円ずつに分ければよいが、不動産はそうはいかない。結果として共有になるが、共有不動産は「誰のものでもあって、誰のものでもない」状態になる。売るにも貸すにも、全員の同意が必要になるからである。

次に、納税資金の問題がある。都心の不動産は評価額が高い一方で、現金収入を生まないケースも多い。相続税は現金で支払う必要があるため、不動産を売却せざるを得ない状況に追い込まれることもある。

さらに、時間の問題もある。親が高齢になると、認知症などにより意思決定が難しくなる。不動産は所有者の判断がなければ動かせないため、売却も活用もできない状態に陥る。成年後見制度に入れば、なおさら機動性は落ちる。

こうした問題は、相続が起きてから対応しようとすると、ほとんど手遅れである。

だからこそ、生前のうちに少しずつ動かしておく。これが暦年贈与の本質である。

例えば、持分を段階的に移しておくことで、誰がどれだけ持つのかを事前に調整できる。特定の子に多く持たせることもできるし、共有状態になるとしても、その割合をコントロールできる。

また、収益不動産であれば、賃料収入の帰属を変えることで所得分散が可能になる。親が高い税率で課税されている場合には、全体の税負担が下がることもある。

さらに、将来値上がりが見込まれる不動産であれば、現在の評価額で移転しておくことで、増加分を次世代に移すことができる。もっとも、この点は市場環境に依存するため、不確実性はある。

このように見ていくと、不動産の暦年贈与は節税のためのテクニックというより、「時間を使ってリスクを分散する手段」と位置付ける方が正確である。

もっとも、デメリットも明確である。何よりもコストが重い。また、毎年の贈与には手続きが伴い、継続的な管理が必要になる。持分を細かく分けすぎれば、将来の意思決定がかえって難しくなる可能性もある。制度変更のリスクも無視できない。

したがって、この方法はすべての人に勧められるものではない。特に、資産の大半が現金である場合や、不動産の評価額がそれほど高くない場合には、無理に採用する必要はない。

一方で、不動産の評価額が高く、相続時の負担や分割の難しさが想定されるケースにおいては、この手法は現実的な選択肢となる。

不動産の暦年贈与は、一見すると「損をする手続き」である。しかし実際には、「将来の大きな損失を避けるために、今、小さなコストを払う」という判断である。

税金だけを見れば不利に見える選択も、全体で見れば合理的であることは少なくない。実務の現場では、そのような意思決定が静かに積み重ねられている。

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2026年3月19日 木曜日

家族とは何か──安心のインフラという視点

家族とは何か、と問われたとき、少し前の自分であれば、うまく答えられなかったと思う。愛情とか絆とか、そういう言葉は思い浮かぶが、どこか現実と噛み合っていない感覚があった。

むしろ、強く残っているのは怒りのほうである。なぜこんなにも分かり合えないのか、なぜ同じ空間にいてこんなに摩擦が生まれるのか。仕事では冷静に処理できることが、家庭ではまるで通用しない。その不合理さに、苛立ちのようなものを感じていた。

司法書士として、これまで多くの家族を見てきた。相続の場面では、長年連絡を取っていなかった親族が現れ、財産を巡って対立する。成年後見では、本人の意思を巡って家族同士が鋭く衝突する。外から見れば「なぜそこまで」と思うような場面でも、当事者にとっては切実であり、譲れない。

当初は、それを「人間関係の問題」や「性格の問題」として捉えていた。しかし、同じような構図が何度も繰り返されるのを見ているうちに、少し違うのではないかと思うようになった。何か、もう少し構造的なものがあるのではないかと。

あるとき、ふと気づいたのは、「安心」という視点である。

人は、自分が不利な扱いを受けるのではないか、排除されるのではないか、正当に評価されないのではないか、そうした不安を抱えたときに強く主張し始める。場合によっては攻撃的になる。それは、相手を打ち負かしたいからというより、自分の立場を守ろうとする反応に近い。

そう考えると、これまで見てきた多くの争いも、単なる利害対立ではなく、「安心の不足」が引き起こしている現象のように見えてくる。家族の中で安心が十分に供給されていないとき、人はその不足を埋めようとして、結果的に奪い合う構造に入る。

ここで少し視点を変えると、家族とは何かが見えてくる。家族とは、愛情の共同体というよりも、「安心を供給するインフラ」としての側面を持っているのではないか。

社会は不確実であり、競争や評価にさらされる場である。その中で、人はどこかに無条件に受け入れられる場所を求める。本来、家族はその役割を担うはずだった。しかし現実には、その家族の内部でも同じように不安が生じ、安心が揺らぐことがある。そのとき、家庭は安らぎの場ではなく、圧力のかかる場へと変わる。

興味深いのは、法律はこの状況に対して一定の整理を与えるが、解決まではしないという点である。相続分の規定や後見制度は、最低限の公平を担保する。しかしそれはあくまで外側からの調整であって、家族の内部に安心を生み出すものではない。むしろ制度が必要になる時点で、すでに何かが崩れているとも言える。

ではどうすればよいのか。この問いに対して、明確な答えを持っているわけではない。ただ、自分の中で変わったことはある。

以前は、相手の言動の正しさや誤りに意識が向いていた。しかし今は、その背後にある不安のほうを見るようになった。そうすると、不思議なもので、あれほど強かった怒りが、少しずつ力を失っていく。完全に消えるわけではないが、少なくとも同じ強さでは持続しない。

家族とは何か。この問いに対する答えは一つではない。ただ少なくとも、うまく機能している家族においては、人は過剰に防御的にも攻撃的にもならない。そして、そうでないとき、その背後には安心の不足がある可能性が高い。

結局のところ、家族をどう定義するかよりも、その中で何が供給されているのかを見るほうが現実に近いのかもしれない。安心があるのか、それとも不足しているのか。その一点だけでも、見え方は大きく変わる。

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2026年3月13日 金曜日

成年後見制度の抜本的見直しと今後の展望

成年後見制度の見直しに関する改正要綱案が発表された。今回の改正要綱案は単なる条文の修正ではなく、制度の考え方そのものを組み替えようとする内容を含んでいる点に特徴がある。

現行制度は、後見・保佐・補助という三つの類型を設け、判断能力の程度に応じてあらかじめ枠組みを振り分ける構造をとっているが、改正案はこの三類型を見直し、「補助」を基本の形として、その中で必要な権限を個別に付ける仕組みに再編する方向を示している。

つまり、これまでのように「能力がどの段階か」で制度を決めるのではなく、「その人にどんな支援が必要か」で内容を決める発想へ転換しようとしているのである。補助開始にあたり、原則として本人の同意を求めるとする点もこの思想を端的に表しており、制度の入口から本人意思を中心に据えようとしている姿勢がうかがえる。

補助人の権限も、必要な行為に限って同意権や代理権を付与する設計とされており、従来のように包括的に権限を与えるのではなく、できる限り限定的に、具体的に決めていく方向が示されている。

もっとも、判断能力を欠く常況にある者については、「特定補助人を付する旨の処分」という形で、より強い保護を可能にする枠組みも用意され、不利益な契約の取消し、郵便物の管理、さらには死亡後の一定の事務についても明文化が図られている。

実務上あいまいであった部分を整理し、保護の実効性を確保しようとする意図が読み取れる。

また、任意後見制度についても、公正証書による契約や変更の明確化、開始時の監督人選任の原則化、開始後の解除要件の整理など、安全性と透明性を高める提案が盛り込まれている。

本人の自己決定を尊重しつつも、濫用を防ぐ仕組みを強めるというバランスをとろうとしていることが伺える。

全体として本改正案は、「守るために制限する制度」から「尊重しながら支える制度」への移行を志向するものであり、成年後見制度を、能力を奪う仕組みではなく、生活を支える法的インフラとして再構築しようとする試みであるといえる。

もっとも、権限を個別に設計するということは、その設計を担う側の責任がより重くなることも意味するのであり、形式的な類型判断ではなく、本人の生活実態や意思を丁寧に把握する力量がこれまで以上に問われることになるだろう。

制度が柔軟になるほど、運用する人間の姿勢が制度の質を左右するという点において、今回の改正は実務家に対する静かな問いかけでもある。

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2026年1月30日 金曜日

司法書士の横領事件から考えること ― 信頼と制度、そして人間の現実 ―

先日、ある司法書士が成年後見業務に関わる横領事件により、懲役7年の実刑判決を受けたことが公表されました。それを受けて、所属会の会長名で声明が発出され、司法書士制度に対する信頼を大きく損ねたことへの深い反省と、再発防止に向けた強い決意が示されました。

この声明は、司法書士会という組織の一員として見ても、また制度を社会から預かる専門職団体として考えても、現在の制度の下で示されるべき姿勢として、極めて妥当であり、正しいものだと受け止めています。社会に対して曖昧な態度を取る余地はなく、強い言葉で遺憾の意を示し、信頼回復に努める意思を明確にすることは、会として当然に求められる責務であると考えます。

その一方で、会として示される「正しさ」と、個人として事件に向き合い考えることとは、必ずしも同じ場所に留まる必要はないのではないかとも感じています。私は司法書士である前に、一人の人間であり、この事件と声明を前にして、制度とは別の次元で考えてしまう自分がいることも否定できません。

司法書士に求められている倫理や責任、人格について、行為規範や倫理規程を改めて読み返してみると、そこに描かれている人物像は、冷静で、公正で、私利私欲から距離を保ち続ける、非常に高い理想像であるように感じます。しかし、司法書士もまた人間です。

人間である以上、迷いや弱さがあり、環境や状況によって判断が揺らぐこともあります。完璧な人格を生涯にわたって維持し続けることは、誰にとっても容易ではありません。倫理観は極めて重要であり、司法書士にとって不可欠な柱であることは間違いありませんが、倫理観だけで人間の行為を完全に制御できると考えることには、現実的な限界もあるように思われます。

不完全な人間に高い倫理を求め続ける社会は、その正しさの裏側で、少しずつ疲弊していく側面もあるのではないでしょうか。SNSなどで日常的に目にする、他人を糾弾し合う光景も、「理想的な人間像」を他者に求めすぎた結果として生じている一面があるように感じられます。そして、その不毛な緊張関係は、いずれ自分自身にも跳ね返ってくるものだと思います。

横領という重大な犯罪についても、「悪い人間がいた」という整理だけで終えてしまえば、同じ問題は形を変えて繰り返される可能性があります。人間は不完全であり、倫理観にも限度がある存在だと認めたうえで考えるならば、「より高い人格」を求めることだけでなく、そもそも横領をしづらい、あるいは横領をしても意味が生じにくい制度をどのように設計するか、という視点も重要になるはずです。実際に、成年後見制度においては、後見制度支援信託や後見制度支援預貯金といった仕組みが整備されてきました。

私はかつて、恩師から「人生は常に過渡期にある」と教えられました。この言葉は、完成や安定が存在しない世界においても、考え続け、問い続けることの意味を示しているように思います。もし人生が常に過渡期であるならば、人間は「正解を作る存在」ではなく、「問いと共に生きる存在」なのかもしれません。

会としては、今後も正しい姿勢を示し続ける必要があります。その一方で、私個人としては、不完全な人間を前提とした社会や制度を、どのように引き受け、支えていくのかを問い続けたいと考えています。その問いから目を逸らさず、考え続けること自体が、ささやかではありますが、専門職として、また一人の人間としての確かな営みであると感じています。

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2026年1月7日 水曜日

不動産登記に詰め込まれる社会 ――増え続ける情報と現場の現実

最近の不動産登記に向き合っていると、「登記で確認する情報が増えた」という感覚を持つことが多くなった。書類の枚数が増えたというより、社会が抱えるさまざまな問題そのものが、少しずつ不動産登記という制度の中に流れ込んできているように感じられる。

所有者不明土地の問題を背景に、登記名義人をより正確に特定する必要性が高まり、検索用情報の申出が始まった。氏名や住所だけでなく、生年月日やメールアドレスといった情報まで含めて管理し、将来的には名寄せや職権による変更登記につなげていこうという考え方は、すでに実務の前提として受け入れられつつある。

しかし、その流れはそれだけにとどまらない。たとえば旧氏の併記である。婚姻により氏が変わることで、過去の登記名義や社会生活上の履歴との連続性が分かりにくくなるという問題がある。選択的夫婦別姓をめぐる議論が続く中で、「同一人物であることをどう示すか」という課題が、不動産登記の場面にも持ち込まれることになった。

また、外国籍の方が登記名義人となる場合には、ローマ字氏名の確認が必要となる。カタカナ表記との違いや、パスポートに記載された氏名との整合性など、実務の現場では細かな確認作業が欠かせず、その一つひとつに注意を払う必要がある。さらに近年は、外国人による不動産取得をめぐる社会的関心の高まりを背景として、国籍の申出や記載を検討する動きも出てきており、登記で扱う情報の幅は今後も広がっていく可能性がある。

こうして並べてみると、これらは本来、それぞれ別の文脈で語られてきた問題である。所有者不明土地の問題、夫婦同姓・別姓をめぐる議論、外国人問題。いずれも日本社会が抱える重要な課題だが、不動産登記の現場では、それらが一つの登記申請の中に同時に現れることになる。

登記名義人を「誰であるか明確にする」という一点に向かって、社会のさまざまな問題が折り重なるように集約され、その結果として、提供される情報の量は確実に増えてきた。確認事項も、依頼者への説明も、入力やチェックの工程も増え、司法書士の負担が大きくなっているのは事実であるし、同時に法務局の審査や管理の負担もまた、確実に増している。

もっとも、これらの制度は、社会課題の解決を目的としている作られている。社会が抱える複雑な課題に対して、登記制度としてどのように向き合うべきか、その試行錯誤の結果が、現在の制度の姿なのだと思う。

不動産登記は、単なる権利関係の記録ではない。その時代が抱える不安や課題を、静かに引き受け、整理し、形にしていくための器でもある。社会の変化に振り回されながらも、最終的にはそれを整合させ、将来に残していく。その役割を、司法書士と法務局は、日々の実務の中で黙々と担っている。

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2025年12月31日 水曜日

静かな循環の中で― 年の終わりに、司法書士としての感謝を胸に ―

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今年も多くのご相談に触れさせていただきました。

相続、登記、後見といった手続の背景には、必ず人の生活があり、人生があります。制度や法律は整っていても、それを使う人の気持ちが追いついていない場面に、何度も立ち会いました。そのたびに、司法書士という仕事は、書類を整える仕事であると同時に、社会と個人の間に立つ仕事なのだと、あらためて感じさせられました。

社会は、ときに冷たく、ときに理不尽に見えることもあります。
それでも、法律や制度が存在し、登記簿があり、手続が積み重ねられてきたからこそ、私たちは安心して生活を続けることができます。今年は、その「見えにくい土台」のありがたさを、例年以上に実感した一年でした。

日々の業務が成り立つのは、依頼者の方だけでなく、法務局をはじめとする関係機関、同業者の方々、そして社会全体が、黙々と自分の役割を果たしているからです。誰かが声高に主張しなくても、社会は静かに回り続けています。その循環の一部として仕事ができていることに、素直に感謝の気持ちを抱いています。

私生活においても、同じことを感じました。
仕事と家庭、役割と個人の間で揺れながらも、日常が崩れずに続いているのは、多くの人の支えや社会の仕組みがあってこそです。今年は「前に進む」よりも、「整える」「立ち止まる」ことを選ぶ場面が多くありましたが、それを許してくれる社会の懐の深さにも、救われてきました。

来年も、社会は変わり続けるでしょう。
制度も環境も、決して安定しているとは言えません。だからこそ私は、急がず、単純化せず、目の前の一つひとつの事案に丁寧に向き合っていきたいと考えています。それが、社会から与えられている役割への、私なりの応答だと思うからです。

一年の終わりにあたり、声高な決意表明はいたしません。
ただ、この社会の中で仕事を続けられたこと、日々を積み重ねられたことに、静かに感謝を申し上げます。

今年も、ありがとうございました。
来年もまた、社会の一隅を支える一人として、誠実に歩んでまいります。

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2025年12月26日 金曜日

対立がなぜ起きるのかをAIに聞いてみた―箱を回して世界を見る―

最近、日本と中国の関係が悪化している、という話を毎日のように報道で聞く。では「なぜ対立が起きるのか」。

そう問いを立てたとき、私はいきなり答えを求めるよりも、まず全体を眺めてみたくなった。

そこで、ChatGPTにこの問いを投げてみた。返ってきたのは、単純な原因論ではなく、少しずつ視点をずらしながら考えていく対話だった。

一つの問題を「箱」だとする。
正面から見る。裏側から見る。
右から、左から、上から、下から。
さらに一度ばらして、もう一度組み立ててみる。
そんな作業に近い。

たとえば、日本と中国の違いを「国民性」という言葉で語ることは簡単だ。
だが、それは本当に本質だろうか。

話を進めていくと、宗教の違いよりも、国土の大きさや歴史的な環境が、人の振る舞いや社会のかたちに強く影響しているのではないか、という視点が浮かび上がってきた。

大陸国家では、多民族・多文化が前提となる。
自分の立ち位置を示すために、自己主張は生きるための技術になる。

一方、日本のような島国では、同質的な集団の中で、強い主張をしなくても社会が回ってきた。
その結果、暗黙の了解や空気を読む力が発達し、細やかな規律や秩序が洗練されていった。

では、その日本は、大陸側からどう見えているのだろうか。
秩序正しく、整っているが、同時に閉じている。
暗黙のルールが多く、外からは入りにくい。

日本人自身が気づかない「見えない壁」が、そこにはあるのかもしれない。

ここで重要なのは、どちらが正しいか、という話ではない。
見ている「面」が違う、というだけのことだ。

ルービックキューブを思い浮かべる。
こちらから見て揃っている面も、反対側から見ればバラバラかもしれない。
一つの面だけを見て、全体を判断することはできない。

さらに話は、多様性という言葉にも及んだ。
グローバル化が進み、自己主張や明示的なルールが求められる時代になった。
その中で、日本が長い時間をかけて育ててきた暗黙の秩序や制度は、時に「古いもの」として語られる。

しかし、もし日本らしさがすべて失われ、世界が同じ形に均されてしまったら、それは本当に多様性なのだろうか。

個人の個性と同じように、国家や社会にも固有の個性がある。
その一つとして「日本人であること」が自分のアイデンティティに含まれているなら、日本という社会の個性が消えることは、自分自身の輪郭が薄れることでもある。

この感覚は、右か左か、保守か革新か、という話とは少し違う。
むしろ「多様性を大切にしたいからこそ、日本らしさも残っていてほしい」という、矛盾を抱えた正直な感覚に近い。

結局、日本と中国の対立も、単なる政治や経済の問題だけでは説明しきれない。
互いがどんな箱を持ち、どの面を見て世界を理解しているのか。
自分が相手をどう見ているかだけでなく、相手から自分がどう見えているか。
その視点を行き来するところに、対立の正体が少しずつ立ち上がってくる。

答えを一つにまとめるよりも、面を回し続けること。
揃えようとして壊し、壊しては組み直すこと。
対立を「解くべき問題」ではなく、「眺め続ける立体」として扱うこと。

もしかすると、その姿勢そのものが、対立と向き合う一つの方法なのかもしれない。

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